タイへ出発
残り二ヶ月の期間は日本での《最後のひと時》を過ごす事になる。
(自分の気持ちとしては、もう日本を捨てる覚悟があるから)
そんな気持ちを察してくれたのか、友人・知人からの歓送会と称した誘いが相次ぐ事になった。会の内容はどうあれ、3月初めからひと月の間に十数回の歓送会の予定が入った。
埼玉・東京・神奈川と今まで働いた地域全てに行くことになった。
やはり異国へ行って働く事は、みんな至極心配をしてくれる訳で涙の出る位嬉しく有難いものである。
ほんとに泣いてしまった会も幾つかあった。(泣き上戸なんです)
私の大好きなカラオケの歌の内容と同じ「語り明かせば尽きないけれど・・・」でもあった。
毎回深夜までの付合いであった。
内臓の心配をしなければならない位の強行軍が続いた。
(まあ、私自身酒を飲むのが嫌いではないので頑張りとうせたが)
そんな中である後輩が、「すーさんは勝ち組みですよね」と言っていたのを思い出す。
以前にも書いたが、今回の退職は辞めるも・・残るも・・だったから、その言葉には<ドキッ>とした。
私が一年のブランクはあったが、あまりにもスムーズにタイ行きが決まり日本からの駐在といった恵まれた条件も見ての言葉だったのか?
(失業手当もしっかり約一年間もらっている事も知っていたし)
ただ、それはあくまで日本にいる人達が感じているだけの事なのだが。
実際、私の心の中は例えると怒られそうだが、戦場へ出向く兵士の気持ちと同じなのかなと感じていた。(私の場合死ぬ事を心配する事はないが)
全く未知の世界へ入っていくような気持ちにもなっていった。(仕事経験もありタイの事は十分知っていたのにである)
そして、歓送会等があっという間に終りいよいよタイ進出が迫ってきた。
(こういう時の時間は矢の様に過ぎるものである)
しかし、それに伴う日本での手続きがまだ結構残っていたのである。
公共料金の解約・郵便局・銀行・大使館・外務省等々、思った以上のものであった。(これはタイへ行ってからも同じ事をする事になるだろう)
皆さんも引越の時などに経験があると思うが、今回は外国への移動なのでなおさらであった。(妻が外人という事も余計に手間がかかった)
今回、会社との契約で引越荷物の輸送代は半分出して貰える事になり、今まで使っていた物も少しタイへ送ろうと考えた。
私は貧乏性なので、古い物でも結構とっておく癖がある。
逆に妻は、後から後から新しい物を買い古い物はすぐ誰かにあげてしまう。
(それらを買う・・はどこから出ているかは問題にしていない)
そんなで私は冷蔵庫・洗濯機・ステレオ等、電気製品もある程度送ろうと思った。
しかし妻からは、
「タイで買えばいいじゃない」
と一言。確かに一理ある。
わざわざ高い輸送代を出すならそのお金で新品を買う事もできる。
しかし、私はその言葉に譲らず送る事にした。
送って正解なのである。(多少古くても)
《タイで働きタイ製の製品を作る会社に勤めると決めているのに、自分の どこかにタイ製品を信用していないという矛盾した何とも言えない変な 気持ちがあるためだった》
それらの幾つかの電気製品と夏服以外全て廃棄処分にした。
洋服タンス・食器棚・冬服・食器・布団等々物的財産の90%近くを。
この時も涙が出る思いであった。
今迄、少しずつ買い揃えてきた物を一気に捨てるのは何と悲しい事か。
車は兄に譲り、マンションも売りに出した。
身の回りは綺麗さっぱりになった。
そして《2003年4月10日》運命の日が来た。
日本を捨てタイで生きていこうとする第1日目である。
一番の友人であるI君が愛車エルグランドで迎えに来てくれた。
わざわざ会社を休んで空港まで送ってくれたのである。
空港では長兄・義姉・姪の三人も見送りに来てくれた。
人数的には少ないが、それまでに沢山の人からの叱咤激励をもらっているので何十人という人が見送りに来ているのと同じであった。
最後の記念写真を撮り、出発ゲートをくぐった。
《さようなら、ニッポン》
午後3時15分発JAL703便に乗りいよいよタイへ出発となった。
管理人から
すーさんの最後の日本生活の1ヶ月は内臓との戦いだったと、掲示板にすーさんは書かれていましたが、まさにその通りですね。そして感動の嵐。いいですねえ、どうせタイに来るならこういう風に送られたいモノです。タイにいる日本人のほとんどはこうではないですから…。これからすーさんはタイで働き、そして生活していくわけで、ある意味ここまではプロローグにすぎないわけです。が、なんて感動的なプロローグなんだ、と管理人少し感動しながら編集しております。